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院長

8月15日を迎えて──自己犠牲で支えられた国の構造と、皆保険制度の現在地について

今年も8月15日を迎えました。終戦記念日は、毎年静かに私たちの前に現れ、なぜ日本はあの戦争を止められなかったのかという問いを投げかけます。日本が敗戦に至るまで戦争を止められなかった理由は、単なる軍部の暴走ではなく、人類が持つ結論の先送りやグループシンク(集団浅慮)といった深い構造が背景にあり、そこに日本特有の自己犠牲の美学が重なりました。特攻隊に象徴されるように、個人が壊れても組織を守ろうとする価値観が国を袋小路へと追い詰め、原爆を二度落とされるまで止まれなかったという事実があります。私は、この構造が、今まさに綻び始めている国民皆保険制度にも通じているのではないかと感じています。

SNSでは外科医が辞めていく声が絶えません。「もう限界だ」「体がもたない」──その言葉は、かつての特攻隊の手記と同じ匂いを帯びています。私自身、大学で多くの恩師を亡くしました。それが過労によるものかどうかは断定できませんが、私自身も身体を壊し、大学を辞めざるを得なかった事実があります。これは偶然ではなく、自己犠牲によって現場が維持されている証拠だと感じています。にもかかわらず、政治家、シルバーデモクラシーによって影響力を持つ高齢者層、そして最前線の医師の代表とは言い難い医師会は、現場の疲弊を見て見ぬふりをしながら、国民皆保険制度の継続だけを掲げています。まるで戦時中の大本営発表のように「現場は持ちこたえている」と言い続けているかのようです。

地方ではすでに医療格差が深刻化しています。緊急手術は対応不可、夜間の救急も成り立たない。しかし地上の住民は声を上げません。声を上げれば、自己犠牲で現場を支えている医師を攻撃することになってしまうからです。本来は政治の問題であるにもかかわらず、住民は医師を責めたくない。だから沈黙します。その沈黙が制度の崩壊をさらに加速させています。

都市部は地方の崩壊から目をそらしています。しかし歪みは別の形で現れています。直美問題に象徴されるように、制度の綻びは都市部にも静かに浸食しています。「皆保険制度は守られるべきだ」という声は強いままですが、その理想を支えるために誰がどれだけの自己犠牲を払っているのかという視点は、ほとんど語られません。

地域枠も大きな問題を抱えています。本来は地域医療を守るための制度だったはずが、現場の疲弊を埋めるための延命措置として機能してしまっています。そして多くの医療者は薄々気づいています。このままでは、国民皆保険制度はどこかで破綻する。しかし誰もその結論を口にしません。戦時中と同じように、結論は先送りされ、自己犠牲によって現場が支えられ続けています。

終戦記念日を迎えるたびに思います。歴史は感情ではなく、構造として繰り返されます。戦争を止められなかった国は、自己犠牲によって制度を維持しようとする国でもあります。そして袋小路に追い詰められて初めて、大きな転換が起こります。医療制度も同じ構造の上にあります。だからこそ、今こそ静かに問い直す必要があります。「誰の犠牲の上に、皆保険制度は成り立っているのか」「この国は、また袋小路に入っていないのか」。8月15日は、過去の戦争を悼む日であると同時に、未来の制度を考えるための構造的な鏡でもあると感じています。