MJと働き方改革──量をこなさずして質は語れない
MJと言えば、我々の世代にとってはマイケル・ジャクソンです。「マイティジャック?」という方もいらっしゃるかもしれませんが、ちょうど今、マイケルの伝記映画が上映されていることもあり、今回はマイケル・ジャクソンについて書いてみたいと思います。
先日、その映画を観てきました。彼の人生は華々しい成功と同時に、数々のスキャンダルや訴訟に彩られています。そのため、訴訟関連の内容は映画に盛り込めず、またご家族の中でも映画化に賛同されなかった方がいたようで、いくつか微妙な点が残ったのは事実です。
それでも、彼が稀代のスーパースターであったことは誰の目にも明らかです。特筆すべきは、マイケル役を演じているのが彼の実の甥、ジャファー・ジャクソンであること。血縁ならではの身体の動きや表情の再現が驚異的で、まるで本人が蘇ったかのような錯覚を覚えました。ダンスも歌唱も圧倒的な再現度で映像化されており、ファンとして胸が熱くなる場面が多々ありました。
映画を観ながら、ふと当時の記憶が蘇りました。日本がバブル景気に沸いていた頃、海外の大物アーティストが次々と来日し、もちろんマイケル・ジャクソンの来日公演も一大ニュースでした。日本のゲーム会社SEGAが彼を題材にしたゲームを発売し、チンパンジーのバブルス君と東京ディズニーランドを貸し切ったという話題も記憶に残っています。
あの時代の熱狂と、映画の中で描かれる彼の孤独が重なり、どこか切ない余韻を残しました。
ネタバレは避けますが、そもそも彼ほどの有名人であれば、我々が知らない事実が突然出てくるわけではありません。黒人の貧困層に生まれ、天賦の才能を持つMJが、高圧的な父親からDVさながらの厳しい「修行」を受け続け、そこからトップスターへと駆け上がり、やがて父の束縛から解放されていく――その物語です。そして、この構図こそが、我々世代には強く刺さるのだと思います。
昭和の「がむしゃらな時代」を生き抜き、努力で夢を掴むというサクセスストーリーにも重なって見えるからです。その中で悪役のように描かれる父親ですが、同時に「彼がいなければMJは成功していたのか?」という問いも投げかけられます。
以前ブログで触れた、サッカーの本田圭佑さんの「量をこなしていない人間に、質を語る資格はない」という言葉を思い出しました。MJもまた、貧困から抜け出すため、あるいは父親の暴力への恐怖からかもしれませんが、誰よりも練習を積み重ねたはずです。逸話として、日本のホテルに滞在した際、鏡の前がびしょ濡れになっていたという話があります。おそらくは鏡の前で激しいダンス練習をしていたのだろう、と語られています。
働き方改革と「量の消失」
ここで、ふと考えさせられました。
働き方改革が進む現代では、「量をこなすこと」が悪のように語られることがあります。もちろん、過剰労働や不条理な長時間勤務は改善されるべきです。しかし同時に、量を軽視する風潮が生まれているのも事実です。
医療の世界では、量をこなした経験がそのまま患者の安全につながります。手術、診察、判断、合併症の経験――これらは「質」ではなく、まず「量」が土台となって積み上がるものです。
MJの鏡の前の水たまりは、医療者が深夜のドライボックスで黙々と縫合練習をしていた姿と重なります。誰にも見られない努力。その“見えない量”こそが、後の“見える質”を支えている。
働き方改革は必要です。しかし、量を減らすなら、質をどう担保するのか。この問いを避けてはならないと、MJの映画を観ながら強く感じました。
映画としても圧巻
この映画はライブ映像としても圧巻です。
ぜひ、音響の良い映画館で鑑賞されることをお勧めします。


