~特別編~第2章:昭和な師匠との出会い
私の師匠は、武内裕之先生。正直申し上げて、かなり「昭和」な先生でした。
当時黎明期にあった腹腔鏡下手術のスペシャリストであり、世界最先端の手術を行っていた先生です。婦人科腹腔鏡手術で名を馳せた順天堂大学、その中心に武内先生はいらっしゃいました。
私と師匠との出会いは、前回もお話しした通り、落ちこぼれとしてスタートした私の産婦人科医としてのキャリアの中で訪れました。まだ注目されていなかった腹腔鏡下手術に、助手として入らせていただいたことが始まりです。開腹手術とは全く異なるそのシステムに、私はすぐに魅了されました。
ただ、自信を失っていた当時の私にとって、最先端の手技を任せてもらえるのかどうかは大きな不安でした。興味はあります、と伝えるのが精一杯だった私に、武内先生は一言、「やりたいか、やりたくないのか、はっきり言え」と言われました。
その瞬間、覚悟を決めて「やりたいです!」と答えたことが、私の腹腔鏡下手術キャリアの始まりでした。
師匠はとても昭和的な方で、朝早くから出勤し、夜遅くまで残って仕事をするのが当然。私たち弟子もそれに倣う日々でした。当時の腹腔鏡はようやく「手術」として認められたばかりで、もともとは不妊治療の検査に端を発していました。そのため、腹腔鏡グループの仕事には不妊治療も含まれていました。
当時の大学での不妊治療はまだニッチな領域で、採卵は早朝7時半から始まるのが日常。前夜遅くまで仕事をしていても、翌朝7時過ぎには大学に出て採卵を行い、媒精や顕微授精も自分たちで行う──胚培養士が登場する前の時代でした。どこの施設も似たような状況だったと思います。
その後、腹腔鏡下手術が注目され始め、武内先生の手術は予約が殺到。待ち時間が1年以上という異常な事態にまでなりました。大学病院としては収益拡大のために手術枠を増やすよう指示が出され、先生はまさに“時の人”となっていきました。
先見の明があった先生は、日本産科婦人科内視鏡学会で技術認定制度を発足させ、一定の技術を持つ術者を学会として認定する仕組みを立ち上げました。その教育カリキュラムを、私が一緒に創らせていただくことになったのです。
奇しくもその前後、腹腔鏡下手術での事故が発生し、医師が逮捕されるという事件に発展しました。その影響で認定医制度がさらに注目され、私も関わっていたことから初年度で認定医となりました。
ここから私のキャリアは大きく発展していきます。
しかし、実際には決して順風満帆ではなく、苦労も多かったのです。
その続きは、次回にお話ししたいと思います。


