娘の誕生日
先日、娘の誕生日を迎えました。今ではバレエ団に所属し、舞台の上で光を纏うように踊る彼女ですが、その誕生は決して平穏なものではありませんでした。
出生直後、重篤な感染症を発症し、NICUへ搬送されました。当時の医療水準でも死亡率が八割とされるほど深刻な状態で、病棟でも最重症例として扱われていました。医局では「忌引きを何日与えるべきか」という話まで出ていたと後から聞きました。私は産婦人科医として多くの症例を見てきましたが、そのときばかりは医師ではなく父親でした。保育器の前で、ただ祈ることしかできませんでした。
NICUセンター長が同級生だったこともあり、通常は許されない進行中のカルテ閲覧を特別に認めてくれました。紙カルテの時代でしたから、私は毎日のようにNICUへ足を運び、変わりゆく数値と記載を見つめました。そこには、医師としては理解できても、父としては到底受け入れがたい現実が並んでいました。
それでも、彼女は生きようとしました。小さな体が機械の音に囲まれながらも、確かに呼吸を続けていたのです。奇跡的に一命をとりとめ、後遺症もなく成長しました。その経過は後に小児科の先生によって学会で報告され、医学的にも貴重な記録となりました。娘の生命が、他の子どもたちの命を救う知見へと変わったことを知ったとき、私は胸の奥が熱くなるのを感じました。
彼女が言葉を話せるようになった頃、テレビでNICUの特集を見て「これ、わたしのことだ」と言いました。そして続けて、「男の子と手をつないで川を渡ろうとしたけど、呼び止められて戻ったの。男の子の手を引っ張って、一緒に戻ったの」と語りました。科学的には説明のつかない話ですが、私はその言葉を聞いた瞬間、あの保育器の中で必死に生きようとしていた姿と重なり、静かに涙がこぼれました。
あの川は、きっと三途の川だったのでしょう。彼女は呼び止められ、戻ってきた。そして、その手を引いてきた“男の子”もまた、誰かの大切な子どもだったのかもしれません。
今、舞台の上で光を浴びて踊る彼女を見るたびに思います。NICUの冷たい光と、舞台の温かな照明は、同じ一本の線の上にあるのだと。生きるとは、ただ生存することではなく、誰かの手を引いて戻ってくることなのかもしれません。
娘の誕生日は、私にとって「奇跡が続いている日」です。あの日、保育器の前で祈った父親の時間は、今も静かに胸の奥で光り続けています。


