第4章:恩師たちの死と医局の変化

落ちこぼれからスタートした私のキャリアですが、師匠のおかげでとても充実した、それもかなり高いものになりました。これについては感謝してもしきれないです。
落ちこぼれの私を拾ってくれた当時の桑原教授ですが、ある日、「身体がだるい」と仰るようになり、採血など検査をお奨めしたところ、そこで末期の肝臓がんが発覚。その後入院となったのでした。
大学院には、行かず、途中入局の遅れを取り戻すように臨床に明け暮れていた私でしたが、師匠と桑原教授のおかげで、特例的に衛生学の研究室に入れることになり、そこで研究、博士号を取得できるように配慮してくれたのです。産婦人科医局の隣に衛生学教室があったこともあり、入院中の教授は、時々病室から抜け出して、医局に来たついでに私の研究姿を見に来てくれ、優しく言葉をかけていただいたことは忘れることができません。
その翌年、帰らぬ人となってしまった教授、その後1年間、医局には教授不在の状態が続きました。その間、腹腔鏡下手術で名を馳せていた師匠は、手術件数を着実に伸ばし、ラパログループを立ち上げることになります。おそらく、桑原教授が健在だった場合には、分野がかなり偏ることもあり、そのようなグループは認められなかったかもしれませんが、チャンスとして師匠は最大限に利用したのだと思います。
その後、新たな木下教授が着任、後で聞いた話ではありますが、任期が6年弱しか無い中、中継ぎとして引き受けてくれたのだそうです。それ故、木下先生は、我々にとても優しく、自由な雰囲気の医局を目指していただいたのでした。
ちょうど、腹腔鏡下手術件数が爆増しておりましたから、木下先生は武内先生のサポートを受け、手術件数を増加させ、収益アップに貢献した、ということで副院長まで上り詰めたのでした。
多数の手術患者さんを効率よく、入退院させていくために、当時流行し始めていたクリニカルパスをいち早く導入、たまたまそのようなシステムが好きだった私を中心としていただき、後輩と一緒に医療マネジメント学会に参加して発表などを行うまでになりました。その功績が評価されたのか、私は大学の電子カルテ導入委員会のリーダーに任命されるまでになったのです。

光があれば、影もあります。手術件数が増えれば、ある一定の確率で合併症が起こりうる故、合併症を何例か経験することにもなりました。低侵襲と信じて手術を行った患者さんにとって、大きな合併症が起こり、開腹手術になったり、ICUに入院したりすることは、かなり大きな想定外の事象です。それ故、クレームにもつながるのですが、師匠は矢面に立ち、全ての患者さんに対峙してくれました。木下教授曰く、この態度だからこそ、腹腔鏡下手術を止めさせるわけにはいかない、続けさせたい、と応援してくれたのでした。