~特別編~第7章:米国からの誘いと異動
師匠亡き後、私たちラパログループはがむしゃらに走り続けていました。その勢いもあって、当時の私は学会参加や講演会への招聘が増え、かなり注目を集めるようになっていました。もちろん当直などのデューティーもこなしていましたので、身体には相当な負担がかかっていたはずですが、当時は「皆で頑張らねば」という気持ちが強く、それを大変だとは自覚していませんでした。
そんな中、Tankoでの取り組みが米国クリーブランドクリニックの P. Escobar 先生の目に留まり、「一緒に手術をしないか?」というオファーをいただきました。基本は1年契約で、手術件数に応じてFeeが発生し、件数が増えれば給与も上がるというシステム。ベースの年俸は当時の日本円で約5,000万円。大学病院の給与が非常に低いことを考えると、破格の条件でした。
心は大きく揺れました。しかし、当時の主任教授であった竹田先生からは、
「1年契約ではその後の保証がない。帰国後のポジションも危うくなる」
と諭されました。私自身も少し自信がなかったこと、そしてちょうど次男が中学受験に合格したばかりで、家庭のタイミングも良くなかったことから、最終的にお断りすることにしました。
その後、竹田教授は突然注目されるようになった私を見て、
「他からのオファーを受けられるように、ポジションを上げておいたほうがいい」
と判断され、私は講師から“先任准教授(旧・助教授)”へ昇格し、順天堂江東高齢者医療センターへ異動することになりました。
後に知ったことですが、他大学から「腹腔鏡下手術ができる医師が欲しい」というオファーが複数あったようです。将来的に教授を目指すなら、外に出たときに有利になるよう、ポジションを上げておくべきだという配慮だったのでしょう。
江東高齢者医療センターは名前こそ“高齢者”ですが、実質的には急性期病棟もあり、手術にも対応できる病院でした。ただし手術件数が伸び悩んでおり、大学上層部から「件数を増やすために誰かを派遣したい」という意向があり、白羽の矢が立ったのが私でした。本来は別の先生が候補だったようですが、その先生が辞退したため、私に回ってきたのです。
私は「ちょうど良い機会だ」と考え、そのオファーを受けました。
さらに、当時聖マリアンナ医大で子宮鏡のエキスパートとして有名だった齋藤寿一郎先生が「順天堂に移りたい」と希望されていたため、高齢者医療センターで一緒に手術を立ち上げることになりました。
私が腹腔鏡、齋藤先生が子宮鏡。
そこに業者から依頼のあった TruClear の日本導入 も加わり、私たちは共同でそのプロジェクトを進めました。結果はご存じの通り、現在も当院でTruClearは大活躍していますが、もともとは私たちが導入の一翼を担っていたのです。
そのおかげでセンターの手術件数は爆発的に増加し、院長にも大変喜んでいただきました。


