~特別編~第6章:師匠の最期──受け継いだもの
入院した師匠は、とても寂しがり屋だったこともあり、ラパログループの誰かが毎日お見舞いに行くことが“義務”のようになっていました。私は木曜の担当でした。
無菌室に入るためには手洗いと消毒が必要で、毎週その手順を踏んで師匠のもとへ向かい、近況を報告しました。本来は師匠が行う予定だった手術、講演、学会発表──それらはすべて私たちに託され、もちろん全てチェックされました。発表スライドも持参し、許可を得てから臨む、そんな日々でした。
移植した骨髄が生着し、一時退院できた日、私も同行しました。
髪が抜けてしまったため、かつらをかぶって学会に出向いた師匠は、誰にも気づいてもらえず、「空気のようになったなぁ」と寂しそうに仰ったことを覚えています。
しかし、その一時退院が最後となりました。
感染症が悪化し、腎機能も低下。使える抗生剤が限られていく中で、戦史が好きだった師匠は「戦力の逐次投入はだめだ」と言い、「今回はダメだろう……」と弱音を吐かれました。
ただ、その弱音は私の前だけだったようです。
呼吸状態が悪化し、挿管する前にベッドサイドに呼ばれた私に、師匠はこう告げました。
「お前はシステムが創れる。ずっと大学にいてほしいが、どこかに異動することになっても、どこでもシステムを立ち上げられるだろう。」
そして最後に、
「ありがとう。」
その一言を残されました。
師匠を中心にまとまっていた私たちのグループは、師匠亡き後、解散の危機に瀕しました。しかし、これまでお世話になっていた他施設の先生方や企業の方々が助け舟を出してくださり、グループは次のステージへ進むことができました。それは間違いなく、師匠・武内先生の人徳の賜物でした。
まず取り組んだのは、師匠が進めていた腹腔鏡下手術の悪性疾患への適用でした。当時は良性疾患にしか保険適用がなく、先進医療として悪性腫瘍グループの先生方と協力して進めることになりました。
さらに、より低侵襲な臍部1か所のみで行う単孔式手術(“Tanko”)にも挑戦しました。これは日本の外科医が世界をリードしていた分野で、婦人科への応用を目指すプロジェクトが始動しました。学会にも積極的に参加し、「武内亡きあとも、全員で頑張るのだ」という強い意気込みで、ただがむしゃらに走り続けた記憶があります。
Tankoは子宮全摘や子宮脱手術にも応用されるようになりましたが、技術的に難しく適応は限られました。そこで、がん生殖医療として注目され始めていた卵巣組織凍結に取り組むことになりました。同時に卵子凍結も行い、これが後の浦安プロジェクトへとつながっていきます。
Tankoについては教科書執筆の機会もいただきました。
師匠亡き後、がむしゃらに取り組んでいたことが、逆に注目を集める結果となったのです。


