~特別編~ 落ちこぼれ医師としての再出発
前回、帝京大学市原病院のリハビリテーション科を途中退局したお話をしました。回顧録としては第1章の補完となります。第2章では恩師・武内先生との出会いを記しましたが、その前にもさまざまな出来事がありました。今回は、第1章と第2章の間を埋めるお話をさせていただきたいと思います。 リハビリテーション科では、一応内科的な研修は受けましたが、通常の医師とは異なる研修であったことは否めません。リハビリテーション…
海外に出て初めて見えた、日本という“よりどころ”の喪失
私は若い頃、カリフォルニア州で自家用操縦士免許を取得するために留学しました。その後も医師として各国に招聘され、韓国、中国、ヨーロッパ、そして何度もアメリカを訪れてきました。こうした経験を重ねる中で強く感じたのは、日本はとても良い国であるにもかかわらず、他国の現実がほとんど見えていないという事実です。海外では、自国の政治や歴史について語ることは市民としての常識であり、アメリカ人は大統領選を語り、中国…
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~特別編~ なぜ、リハビリテーション科だったのか?
回顧録の第1章では、私のルーツと、当初リハビリテーション科に進んだことを記しました。前回はそのルーツについて補足しましたので、今回は「なぜリハビリテーション科を選んだのか」について少し掘り下げたいと思います。 私が卒業した順天堂大学には、当時リハビリテーション科がありませんでした。学生時代の講義は東京大学の先生が出張して担当されており、「いつか順天堂にもリハビリテーション科ができるのであれば、まず…
~特別編~私のルーツ
回顧録では、医師になってからのお話が中心でした。ただ、その背景として「どこで育ったのか」をお伝えした方が良いと考え、今回はそんなお話をさせていただきます。 私は自覚していますが、イデオロギー的にはやや左寄りだと思います。理由は明確で、私が高知県四万十市の生まれであり、私が小学生だった当時の高知西部は日教組が強く、共産党の影響力が非常に強い地域だったからです。そのため、軍国主義を想起させるとして給食…
中国を“発展途上”と信じ続ける日本の危うさ
中国を訪れたとき、私は1980年代のアメリカで感じた空気とまったく同じものを感じました。留学時代、アメリカ人は日本人を敗戦国の黄色人種として扱いながら、同時にソニー製品をアメリカ製だと信じるほど、日本の技術力を正しく認識できていませんでした。表層では日本を下に見ながら、実際には日本の技術が脅威になっていた。その“認知の遅れ”こそが、当時のアメリカの最大の弱点でした。 そして今、その構造が日本にそっ…
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胚移植当日はどのように進む?受付から診察、移植後の報告書お渡しまでの流れ
今回は、患者様から「移植日の一日の流れを知りたい」というご質問をいただきましたので、移植当日の流れについて詳しくご紹介します。 ●移植日当日 当院 患者様 9:15 融解開始 ↓ 13:00 胚の状態を確認 ↓ 13:45~ 来院・採血 ↓ 14:00~ 胚移植 ↓ 15:00 診察・移植レポートのお渡し ①9:15~ 融解開始 当日移植する胚を順番に融解…
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~特別編~ 第22章(あとがき)──静かに選んだ道の先で
振り返れば、私の医師としての歩みは、決して計画されたものではありませんでした。落ちこぼれとして産婦人科に拾っていただき、その後も、偶然の連続のような日々でした。ただ、その偶然を偶然のままにせず、「何か先につながるものはないか」と考え続けてきたことが、結果として今の自分を形づくってきたのだと思います。 若い頃、私は教授になることを自然な目標だと感じていました。その背景には、志半ばで倒れた師匠の存在が…
余白が人生を豊かにするということ──エスカレーターの記憶から考える、体験と幸福の本質
子どもの頃、田舎に住んでいた私は、近くのスーパーにエスカレーターができたと聞き、わざわざそれを見に行ったことがあります。初めて乗ったあの瞬間の嬉しさは、今でも鮮明に覚えています。都会の人からすれば取るに足らない出来事かもしれません。しかし、あの時の私は、世界がひとつ広がったような気がして胸が高鳴ったのです。今では「エスカレーターで遊ばないように」というアナウンスが流れますが、子どもにとってはあれほ…
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