生(性)と死──向き合うべき大きな課題

先日、SNS上で「日本の終末期医療は医療費の無駄遣いだ」という論調が話題になっていました。これに対し、一部の医療者からは「患者家族が延命治療の中止を受け入れないからだ」という意見も見られました。
私は大学を離れて久しく、がん治療などの終末期医療に直接関わる機会は最近ありません。しかし、あくまで私見として言えば、家族が“死”を受け入れることは本来とても難しいのだと思います。日ごろから死について考えることが憚られる社会であれば、なおさらでしょう。
一方で、私の専門である生殖の領域でも、日常的に“性”について語ることは一般的とは言えません。
つまり、生(性)と死という極めて重要なテーマでありながら、私たちは普段ほとんど向き合おうとしていないのです。

歳を重ねて気づいたこと
私自身、若い頃からこうしたテーマを深く考えていたわけではありません。
むしろ、歳を重ね、さまざまな経験を積んできたからこそ、生と死をより自然に考えられるようになったのだと思います。
子どもが成長し、後輩たちが自分の仕事や価値観を何らかの形で引き継いでくれる姿を見ると、「自分という存在は、時間の流れの中で確かに受け継がれていくのだ」と実感します。その感覚が、“死”を恐怖としてだけではなく、生命の連続性の中で捉えられるようになった理由の一つなのかもしれません。歳をとることは、決して悪いことばかりではありません。むしろ、視野が広がり、物事の本質に近づける側面もあるのだと感じています。

生と死を日常に取り戻すために
私たちは誰しも、何らかの形で生まれ、そして必ず死を迎えます。生命の根源的な事実であり、逃れることはできません。その当たり前のことを日常的に考えていなければ、いざというときに戸惑うのは当然とも言えます。
宗教は本来、生と死を深く考えるための拠りどころの一つですが、特定の宗教に依存しない人が多い日本では、心の支えとなる枠組みが弱いのかもしれません。
だからこそ、私はこの現実を科学的な事実として、教育の中で扱う機会があってよいと考えています。近年注目されているプレコンセプションケアも、生の入口を考える取り組みですが、その先に必ず訪れる“死”についても、ある程度は学び、考える必要があるのではないでしょうか。

変わりゆく社会の中で
核家族化が進み、親戚が集まる機会が減ったことで、老若男女が自然に生と死を語る場は少なくなりました。SNSでは自分にとって心地よい情報だけが集まりやすく、ネガティブなことを考える機会が減る一方で、逆に死ばかりを考えてしまう人もいます。極端な方向に傾きやすい環境とも言えるでしょう。
核家族化そのものを否定するつもりはありません。しかし、日常的に地域のさまざまな世代と関わることは、生と死を自然に考えるきっかけになるように思います。

おわりに
歳を重ねることで、ようやく見えてくる景色があります。
生と死を考えることは、暗い話題ではなく、むしろ自分の人生をより豊かにする営みなのだと、今では感じています。
そして、読んでくださった皆さんにも、生と死について、ほんの少しでも思いを巡らせるきっかけになれば幸いです。