臆病な自尊心と尊大な羞恥心——“柱になる”ことの逆にあるもの

なぜか昔から、私は他者から“マウント”を取られることが多いようです。学生時代の同級生から、子どもができてからは他のお子様の親から、そして医師になってからは他の医師から。おそらく、私がぼんやりしているように見えるからかもしれません(笑)。でも不思議なことに、そうした様子を見ていると、むしろ相手の方がかわいそうに思えてくるのです。SNSを眺めていても、誰かを見下すことで自分の価値を確かめようとする人が増えているように感じます。それは、直接的な攻撃ではなく、さりげない比較や、遠回しな優越感の演出。いわゆる“マウント”という行為です。

このような振る舞いを見て思い出すのが、中島敦の『山月記』に登場する言葉——「臆病な自尊心、尊大な羞恥心」。詩人を志した主人公・李徴は、批判されることを恐れて作品を発表できず、官吏の道へ。しかしその道でも満たされず、孤独と苦悩の末に虎へと変貌してしまう。彼の心の奥には、他者に認められたいという強い欲求と、それを傷つけられることへの恐怖が同居していました。

この「臆病な自尊心」は、現代にも通じるものがあります。自信がないからこそ、過剰に自分を守り、他者を攻撃する。「尊大な羞恥心」は、失敗や批判を極度に恐れるあまり、自分を磨く努力すら避けてしまう。結果として、他者との比較ばかりに目が向き、内面の成長が止まってしまうのです。

ここで少し、「プライド」という言葉について考えてみたいと思います。英語の“pride”は、日本語では「自尊心」や「誇り」と訳されます。しかし、日本語の「プライド」は、時に“高すぎる自意識”や“他者を見下す態度”として使われることもあります。一方、「誇り」という言葉には、もう少し静かで内面的なニュアンスがあります。誰かに見せつけるものではなく、自分の中にそっと宿るもの。それは、他者との比較ではなく、自分の歩みや信念に根ざしたものです。 前回のブログで書いた「柱になる」という考え方——誰かを支える存在になること、他者のために立つこと。それは、臆病な自尊心とは真逆の姿勢です。柱になる人は、他者を踏み台にしません。むしろ、自分が傷つくことを恐れず、誰かのために立ち続ける覚悟を持っている。マウントを取ることで得られる快楽は、一瞬です。その後に残るのは、孤独と空虚感。本当の自尊心は、他者との比較ではなく、自分の内側から育てるもの。それは、日々の誠実な努力や、誰かを思いやる行動の中に宿るものだと思います。SNSの時代だからこそ、見えない優しさや誠実さが大切になる。誰かを支える“柱”になることは、決して派手ではありません。でも、その姿勢が、社会を静かに支えているのだと思います。