ホワイト社会について考える

先日、YouTubeを何気なく観ていた際、岡田斗司夫さんが提唱する「ホワイト社会」という概念に出会いました。非常に示唆に富んだ内容で、私なりに理解したことをここで共有したいと思います。

「ホワイト社会」とは、社会全体がより清潔で、健康的で、道徳的であることを強く求める風潮を指すそうです。言わば、“ブラック”の対義語。最近の芸能界やテレビ局の不祥事に対する厳しい目線も、まさにこのホワイト社会化の一端といえるかもしれません。これまで黙認されてきたような問題も、SNSを通じて可視化され、批判の的となるようになりました。

昭和の時代に当たり前とされていた社会規範の中には、今で言う「ブラック」な慣習が数多く存在していました。それが令和を迎え、社会的な揺り戻しとして「ホワイト化」が進んでいるようにも感じます。働き方改革やコンプライアンス、ハラスメントへの意識の高まりなど、その具体例には事欠きません。

ホワイト社会の特徴として一つ挙げられるのが、「表面的な清潔さ」への強い要求です。私たちが子どもだった頃は、身だしなみにそれほど気を使っていませんでしたが、今では小中学生ですら性別を問わず美容に気を配るようになっています。美容整形が流行する背景にも、このような社会の風潮があるのではないかと感じています。

一見するとホワイト社会は理想的にも思えますが、実はそこに潜む問題もあります。それは、「寛容さの喪失」と「多様性の欠如」です。身だしなみを整えるのは悪いことではありませんが、それが過剰になることで、息苦しさを感じる人もいるのではないでしょうか。

多様性を大切にする社会を目指す一方で、私たちは知らず知らずのうちに別の方向へ進んでいるのかもしれません。もちろん、私は「ブラック社会」を肯定するつもりは一切ありません。それによって多くの人が傷ついてきたことも、私自身の経験から理解しています。かつて私が勤めていた大学病院も、ブラックというより漆黒と呼べるほどの環境でした。給与もなく、タイムカードすら存在しない勤務形態は、現代では到底考えられません。

ただ、その過酷な働き方から得た経験を全て否定することも、また難しいと感じています。極端はどちらに振れても良くない――これは多くの人が共感するところではないでしょうか。今後、社会が揺り戻されるような形で、再び異なる価値観が現れるかもしれませんが、ひとつだけ確かなのは、あのブラックな働き方にだけはもう戻りたくない、ということです。