いのちについて考える季節に

毎年8月になると、広島・長崎の原爆の日、御巣鷹山の事故、終戦記念日、そしてお盆と、いのちにまつわる出来事が続きます。否応なく、私たちは「いのち」について思いを巡らせることになります。
私自身、職業柄いのちと向き合う日々を過ごしてきました。以前もお話ししたように、これまで多くの恩師を見送ってきた経験から、その儚さと尊さを痛感せずにはいられません。

先日、人気作品『鬼滅の刃』について話す機会がありました。鬼殺隊や一般人の視点ではなく、「鬼」の立場から物語を考えてみると、また違ったものが見えてきます。永遠の命を得た代償として、人を喰らわなければ生きられない存在――それは、実は非常に悲惨な運命なのかもしれません。
人を殺めることは、現代社会においては明確な犯罪です。鬼殺隊が鬼を討つ行為も、かつて人間だった存在を殺すという意味では、殺人に他なりません。家族を殺された復讐として相手を殺す――この連鎖は、どこかで断ち切らなければならないものです。

現代では、いかなる理由があっても人を殺すことは処罰の対象となります。ただし、ひとつだけ例外があります。それが「戦争」です。国家間の紛争が殺し合いに発展してしまうことは非常に残念ですが、外交の限界が戦争を招くことも、歴史が証明しています。戦争とは、殺戮の連鎖そのものです。勝者であっても犠牲は避けられず、敗者はさらに深い悲しみに沈みます。結局、誰も救われないのかもしれません。だからこそ、国家間の摩擦は水際で食い止める努力が必要なのです。
最近のニュースでは、日本人の人口が減少し、外国籍の方が増加しているという報道がありました。この傾向は今後さらに進むでしょう。だからこそ、共生のためのルールづくりが不可欠です。
日本社会には「同調圧力」という、規範の外側から働く力が存在します。しかし、これは外国籍の方々には理解しづらいものですし、世代間でも大きな隔たりがあるように感じます。こうした背景を踏まえ、より明確な法整備が求められる時代に入っているのではないでしょうか。
医療の分野でも、これまで「医の倫理」によって守られてきた慣習が、他業種から見ると異質な同調圧力に映ることがあります。多様性を尊重する社会を目指す今、これまで当然とされてきたことが通用しなくなる場面も増えていくでしょう。だからこそ、経験則だけに頼らず、一定のルールを設けることが必要だと感じています。

相手の気持ちを慮る――それは日本の美徳かもしれません。しかし、過度な期待は、誰も幸せにしません。すべての人が安心して暮らせる社会のために、柔軟で公平な法制度の整備を願っています。